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夏の女神たち |

夏が終わってしまう。まだ暑い八月の午後だというのに、胸にポッカリ空いた空洞を風が抜けて体がフワフワ浮いてしまうようだ。祭は終わり、もう帰り支度をしなくてはならない。
今日はABTサマーインテンシブの最終日。いつものように八時半にKちゃんを迎えに行く。少し早くに着いてしまったので宿泊先前の石段に座り通りを眺めた。僕は6週間前、ニューヨークに来たての頃、ここに座ってこの景色をどのように見つめていたのだろうか。古いアパートメントが並び道の両側に車が隙間無く縦列駐車されている。ほとんど清掃されることの無い車道脇にはゴミが堆積していて、商店街の方向からは朝からの気温の上昇とともに早くも腐臭が漂い始める。
Kちゃんがおりてきて、「おはよう」を言い、「ほな、行こか」と戦い前の気合を入れ、Kちゃんがいつものように少し困った顔をするのも今日が最後。通りを下って曲がったところにあるデリでサンドイッチを作ってもらい半分ずつ二つに包んでもらう。今日は長丁場なので大きいペットボトルの水も買っておく。
鉄さびで濁った水たまりと朝から元気な物乞いを避けながらポートオーソリティーの建物に入り地下に降りる。改札をくぐって長く暑苦しい地下通路を黙って延々と歩く。頭上にはなぜだか「寝過ごした」「とても疲れている」「もし遅刻したら」「クビになる」「どうしてこんなにつらいのか」「なんでこんなに大変なんだろう」「もう家に帰ろう」「振り出しに戻る」などという、非常に気のめいるような表示がかけられている。地下鉄乗り場の直前の長い長い階段を一段一段踏みしめるようにして登る。最後の一段を越えてからガッツポーズをしてみた。Kちゃんが「今日で最後」と言った。
地下鉄に乗りユニオンスクエアで降りてABT前まで来るといつもここで待っているはずの皆がいないので少し不安になった。「なんか、誰もいないとドキッとするな」とか軽口をたたいていると、ABTのスタッフの方が中から出てきて、「今日は早く始まっているのよ」と言った。しまった今日は九時開始の日だったのか?今はちょうど九時、急げKちゃん?建物の中の通路を駆けていくKちゃんを見送って来た道を引き返す。
朝ごはんをどこかで食べようとユニオンスクエアに入ると地下鉄駅のほうから歩いてくる幾人かのABTの生徒を見かけた。どうやら今日は開校が早かっただけで、朝のレッスン時間を間違えたわけではなかったのか?ユニオンスクエアのベンチでゆっくりと朝食のサンドイッチを食べてから、最近みつけた巨大な古本屋に向かう。
発表会の会場はここから40分くらいのところだが開演の正午まではまだまだ時間がある。古書店に珍しい物がないか探していれば良い暇つぶしになるだろう。地下の理系文書セクションで古い通信プロトコールに関するリファレンスや、二階の美術書コーナーで昔見かけて気になっていた名も知らぬ画家の作品などを探してみたが、蔵書も面積も膨大でとても一日では探しきれない物量であった。結局なにも買わずに時間が来てしまったので発表会の会場に向かう。案内によるとここから地下鉄に乗ると乗り換えなしで現地にたどり着くことができるようだ。
地下鉄はイーストリバー下のトンネルをくぐると、地上に出てさらに高架になった。サブウェイは地下鉄のみを指す名詞ではなく、都市内を巡る短中距離交通を示すようで、山手線もサブウェイのくくりとなるらしい。
目的の駅を降りると、そこは静かな住宅地であった。駅の周りに数軒の料理店や雑貨店が並び、目抜き通りとなる道の両側にもレストランやファストフード店が点在する。通りの裏手は一戸建て住宅が立ち並び、どの家屋にも行き届いた手入れがされている。住宅地という場所を訪れるのはニューヨーク近郊ではスタテン島、ブルックリンに続き三箇所目だが、ここも治安は悪くなさそうだし、物価が安く、そしてなによりこのあたりのレストランの料理はうまそうだ。ここもアパートさえ都合がつけば長期滞在に適した地域と言える。会場までの道で、同じ行き先を迷っているご婦人がいたので一緒に目的地に向かう。
発表会はとある芸術学校のコンサートホールを借りて催されることになっていた。最近できた学校なのか設備は新しくピカピカしていた。開場を待ってホールの中に入りチケットの座席番号に示された席に着く。前よりの上手側で舞台で踊る生徒達の表情もよくわかりそうな位置だ。もらったプログラムを見ると、Kちゃんは正午の部では「ライモンダ」の群舞、四時の部では「パキータ」のソリストを務めることなっていた。その他にも、Kちゃんと親しくしている友達や、会話の中に出てきたクラスメートの名前をチェックしておく。
ホール内が暗くなって発表会が始まった。最初に学校からの挨拶があり、関係者ならびに生徒・保護者へのおなじみの謝辞があった後に発表会の演目が始まった。下のクラスから順にプログラムされているので、Kちゃんたちの出番が一番目となる。
舞台が明るくなって音楽が始まり、下手から男女の生徒達が並んで出てきた。Kちゃんは列の中ほどにいた。全員が振り付けを大切に丁寧に踊っているのがよくわかる。表情は笑顔で自信に満ち溢れている。このクラスは皆仲が良かったのだと思った。チームワークで作られる舞台は時にリハーサルでは見られないような完成度を見せることがある。前日の参観日でいささか不安に感じた未熟さはここでは見られなかった。なによりも仲間達と作品を創り上げることの楽しさ、そして今日でとうとう最後になってしまうこの瞬間に賭ける気持ちが舞台から伝わってきた。Kちゃんはバレエ学校の生徒らしく正確で安定した踊りをした。
このレベルの生徒達に無理のかからないよう振付けられたこの作品においては、バレエの基礎が重視され舞台で白日の目にさらされることは当然だ。徹底した基礎バレエ技術を叩き込まれたKちゃんが、その本領をくまなく発揮できる作品であったと思う。
しかし、Kちゃんだけを見ているわけにはいかなかった。Kちゃんを通じて知ったクラスメートや、いつものABT前でなんとなく顔見知りになり挨拶するようになった生徒達、みんなの踊る姿をこの目に焼き付けておかなくてはと思い、次から次へとあわただしく視点を移すので大変疲れる。がんばる皆さんに僕がしてあげられることは、よく舞台を見て心に残すことだけだ。Kちゃんたちの演目は瞬く間に終わってしまった。拍手だけでなく、客席からは歓声や指笛が聞こえる。ノリの良いアメリカの舞台では普通の光景だが、Kちゃん達も気を良くしていることだろう。
演目は上級クラスへと進み、代表的な古典作品の抜粋が演じられてゆく。どの作品もとにかく無理の無い誠実な振り付けで、正確さが要求される構成には好感が持てた。演目が進み、僕は素敵なキューピットに出会った。バレエダンサーとしては身長と体型に改善の余地ありの生徒だったが、その小憎たらしさやいかに。会場の注目をすべてさらって行き、何度も拍手をもらっていた。彼女にはきっと良い踊り人生が待っていくことだろうと思う。がんばっていただきたい。
休憩をはさんで第二幕が始まった。Kちゃんたちのクラスからの演目だったが、これにはKちゃんはキャスティングされていない。四時の部でソリストに配役されているので、この回には出演していないのだ。次の作品ではひとつ上のクラスの生徒とKちゃん達のクラスの男子達が踊った。音楽は坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」、作品のタイトルは「夏の日に(Summer Days)」。選曲は本当にベタ中のベタであるが、振り付けはとても良かった。舞台という平面に踊りという流動的な要素が加わることによって、奥行きが生まれたり、高さが変わったりするのが観ていてとても楽しかった。Kちゃんのクラスの男子達が必死に背伸びをして上のクラスの生徒についてきているのがほほえましかった。
次の作品ではABTの「悪さ」が出てしまった。ここにきて「歌謡ダンス」を見せられるとは思わなかった。会場はそれなりに盛り上がったようであるが、バレエ学校の発表会にそぐわないどころか、バレエ自体を冒涜するようなものにさえ見えた。日々の厳しいストイックなレッスンの中に、このような気軽でノリの良い音楽と振り付けが飛び込んでくれば、そのとき生徒達は新鮮で爆発的な表現力と集中力を発揮することになるかもしれない。また、様式美と抽象的表現である古典バレエ作品が続くと、バレエを見慣れない観客の多くは疲労感を感じるもので、ここに耳慣れた音楽と、日々のマスメディアから提供され続けているありきたりで簡潔なムーブメントが展開されれば、脳は理解をし判断をしようとする努力をたちどころにあきらめて、受け入れやすいものに出会えた安堵で満たされる。さらに安易で扇動的なプロパゲーションによる一体感ないし高揚感も覚えるのかもしれない。
古典芸術を理解し真に楽しもうとすれば、それなりの教養と慣れ、辛抱が必要となってくるのである。芸術と対峙する体力である。毎日のようにマスメディアからはき出されるファストフードのように受け入れやすく高密度なエンターテインメントは、次第に人から芸術と向き合い、見つめ、感じるための精神的な持久力を奪っていく。古典バレエは今よりもずっと表現手段が限定されていた頃、それでも伝えたいものがあるから創り出された作品である。コンピュータグラフィックや特殊効果など無い時代に、出来る限りの表現方法において舞台上に霧深い森や大海原、はたまた天上を広げて見せた作品である。舞台に向き合い、何度も繰り返し鑑賞し、またバレエ芸術と歴史について学ぶことで、少しずつその真の美しさと脅威を感じ始めることが出来る。この芸術を心から楽しみ愛するためには、それ相応の体力と時間が必要となる。
そのような体力と思慮なしに安易で扇動的なエンターテインメントだらけの世の中になってしまったら(いや、もうほぼそうなってしまっている)、物事を深く捉えよう、愛そうとする者がいなくなってしまうのではないだろうか。メディアによる一方的な情報の発信のみを楽しみ鵜呑みにしてしまっては、多様性が無くなり、自らの創造性を奪ってしまう。
国家的なバレエ団のバレエ学校であるからこそ、時流に飲み込まれること無く、難解であっても純粋なバレエ芸術の紹介と継承に努めてもらいたいのだ。能狂言がそうであるようにバレエが商業的なエンターテインメントの主流である時代は終わってしまった。しかし芸術は経営学的なものさしで評価するものではないし、その芸術を冒涜するような結果となってしまってはその主催者は失格である。今のABTに対して僕がもっとも危惧している部分はここである。過去の日本における同バレエ団の公演を観た時に、今回と同じ失望を味わったことをよく覚えている。この時の舞台は日本国内だったので、頭でっかちで目の肥えた日本人観客の批評的でいぶかしげな視線に晒されての「歌謡ダンス」は歓迎されるはずもなく、社交辞令の拍手と失笑に終わる舞台であったので、経営者達はさぞ肝を冷やしたことだろうと信じたい。
ABTの商業的な本拠地はニューヨーク市である。このバレエ団は、エンターテインメントとしてショービジネスとして、あまたのミュージカルやパフォーマンスと競い合ううちに、バレエの本質を徐々に忘れつつあるのではないか。バレエは何百年もの歴史のある高度に完成された芸術である。それゆえ、バレエの発展してきた悠久の時間と速度を逸脱した無茶な改変をしてはならないのだ。これまでと同じように先人の作り上げた成果を尊重し模倣しながら常に試行錯誤を繰り返し、その結果として発生する非常に緩やかな、ほとんど人の目には顕著でないレベルでの変化のみが許容されるのだ。アメリカを代表するバレエ団のひとつであるABTが商業主義に走ることなく、バレエの本質を追及し表現することのみに尽力することを心から望んでやまない。
演目は進み最上位のクラスによる作品は曲をバッハ、振り付けは生徒達によるものであった。これまでの食傷気味の演目連の後にこのような基本的でストイックな作品が上演されると本当にほっとする。生徒達による振り付けとはいえ、バレエに対するひとりひとりの敬虔な考え方、とらえかた、憧れを反映し、様式美のある良く完成された構成であった。まさにバレエ芸術にささげた作品であったと言ってもいい。そんなわけで、とにかく終幕はなんとかきまった正午の部であった。
次の四時の部の開演までにはまだ1時間半ほどあったので、会場を離れこの地域の散策に出かけることにする。Kちゃんには次の部で大役が控えているので今は集中していてもらいたい。ロビーで僕みたいな輩に遭遇して緊張が壊れることのないようにこっそり会場を後にした。
駅近くのテイクアウトの家族経営ファストフード店に入り試しに注文してみる。レシピに忠実な大変おいしい料理であった。しかも安い。同じ ようなものをマンハッタンで注文したところ、どうしてこうなってしまったのかと首をかしげるような得体の知れないシロモノが出てきたことがあったが、ここでは少なくとも真面目に料理をし、収入はそこそこに堅実な商売をしているのがわかる。この街がますます気に入る瞬間であった。
四時の部ではKちゃんが座席を会場中ほどに取ってくれていた。ここからは舞台を正面に死角無くとらえることが出来るので良い。正午の部と同じ演目を、キャストを入れ替え、振り付けと構成を少し変更して上演することになるらしい。
Kちゃんとよく遊んでくれたお友達は前半の部でソロがあった。安定した誠実な踊りながらも、やはりこちらの子供は「観せ方」を心得ているなという存在感あふれる踊りであった。コンクール等に出ても十分に成果の出る段階であると思った。前半のバレエ作品が進み、Kちゃんの出番が近づいてきた。
休憩をはさんで後半の幕、最初の作品でKちゃんがソロを踊る。
客席が暗くなり舞台に照明が入った。曲が始まり、群舞パートの生徒が出てきた。このクラスの団結力がなせる業なのか、よくそろい美しい。とにかくこのコールドに負けないようにKちゃんは踊らなくてはならない。
Kちゃんが登場した。バレエ学校の発表会とはいえ、新聞の催し物案内にも掲載されるABTの舞台である。しかも有料だ。この誉れ高くもハイプレッシャーな舞台にKちゃんは堂々と進み出た。緊張から少し表情が硬いような気もしたが、ABTの生徒らしく、この6週間で学んだことをきちんと踊りに反映させるよう、丁寧かつ伸びやかな踊りだ。舞台の全員が仲の良いクラスメートであり、また競い合ったライバル達である。この6週間の血肉を分ける厳しいカリキュラムと競争の末に確立されたチームワークは不動の自信と完成度を築いていた。見事だ。
今日の舞台を最後に会えなくなる皆と力の限り踊りきった。楽しかった日々の思い出は、この瞬間、この舞台で永遠となる。会場から惜しみない拍手と歓声が送られた。アイコ先生がこの場にいれば、さぞ鼻の高いことであったろうと思う。この間に握り締めていたこぶしをゆっくりと開く。あちらでは演目中はもはや涅槃の境地であったろうが、こちらは吐きそうになるほど緊張をしていたのだ。
座席に体重をあずける。これで夏がひとつ終わった。ABTの年間のバレエ学校であるJKOの先生達は今のKちゃんの踊りを見ていてくれたかなと考える。決してテクニックにおぼれることなく、また奇をてらったような雑技に走ることなく、正しいバレエのありかたを示す踊りであった。もう最終的な結果は出てしまっているので、Kちゃんの九月からのJKOへの入学は絶望的だが、先生達の印象に残ってくれているといいなと思った。
この緊張の後に坂本龍一の「戦メリ」が流れ、この6週間の夏の日々を語るかのような作品が演じられると、舞台上の生徒の踊りに、Kちゃん達がオーバーラップする。この演目の男性陣がKちゃんのクラスメート達で、正午の部に続いて背伸びをしがんばる姿に涙が出そうになる。女の子のほうが何倍も厳しく辛いというのに、簡単に感動をさらっていける男の子達は得だなあ。
その後の作品について語ることはもうない。会場のバレエを見慣れない観客は予定通りの盛り上がり方をし、時に下品な歓声を送っていたが、Kちゃんがこれらの作品に出ていなくて本当によかったと思う。この四時の部の開演を前にして数人の保護者とこれらの作品について感想や意見を交換し眉をひそめたものだ。とにかくABTの悪しき部分である。運営陣の猛省をうながしたい。結局、最後の作品も正午の部で観たほどの感動も無く終わってしまった。しかしそれでもKちゃん達の演目の評価が変わるものではない。
席を立ち、クラスメートの保護者とともにロビーに出ると、まもなくしてKちゃん達が楽屋から出てきた。Kちゃん達の演目の後に上級クラスの作品が続いたので、踊り終わってから楽屋でクラスメート達と十分にお別れの時間をしてからロビーに現れたのかなと思っていたが、聞けば「じゃあな、またあおうぜ」といったなんとも男らしい別れであったとのことで、そこには感傷的なナミダは皆無であったらしい。戦う者たちの別れ方だ。
Kちゃんは今晩から、またもやこちらの日本人家族のお世話になることになったので、この方々の車に同乗させてもらってマンハッタンに戻る。もしこのご家族のお誘いがなければKちゃんは明日一日中、ミッドタウンの宿泊先の部屋の中に待機となり、ボストン組を迎えに日帰り旅行をする僕の帰りをひとりじっと待たなくてはならなかった。そうなっていれば、厳しくも楽しかった高密度なバレエ学校が終わり、苦楽を共にした仲間達と別れた喪失感は並ならぬものであったろうと思う。
Kちゃんとクラスメート、そのご家族と別れて宿にもどる。今夜午前二時半の夜行列車に乗ってボストンに向かうことになっている。それまでに少し寝ておこうかとも思ったが、いろいろ思考を巡らせ感傷に浸るのが楽しかったので、おきて日記をつけ始める。
もう午後11時をまわってしまった。このまま列車の時間を待つことにする。都会の喧騒がベッドしかないコンクリートの室内に響いている。ニューヨーク市では秋の虫は鳴かないようだ。
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テーマ:バレエ - ジャンル:学問・文化・芸術
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