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北米バレエ留学についていった話
京都のはずれにある小さなバレエ教室からいきなり4人の生徒がニューヨークとボストンにバレエ留学をすることになり、教室の先生の配偶者である甲斐性なし旦那が生徒達を引率してひと夏を見守ることになったのだが…
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妻(元バレリーナ)が拾ってくれなかったら、僕はとうの昔に大西洋で魚のエサになっていただろうな。いまは小さなバレエ教室の隅っこで日々たのしく暮らしています。もう大丈夫。



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グラウンドゼロ
行かねばならぬと思っていた場所。ワールドトレードセンター。帰国を前にしてとうとう本日訪れることにした。

2001年9月11日、卑劣なテロによって二機の航空機が二棟の高層ビルに衝突し乗客乗員とビル内にいた人々、さらには救助のためにビルを駆け上がっていった勇敢な消防士たちまでもがビルの崩壊とともに犠牲になった。僕はその消防士たちのことを思うと、十年近くたった今でも胸が痛くなり、息が苦しくなる。アメリカ人は「ヒーロー」などと表現するが、彼らは街を守るために日々備え日々戦い、自らの職務を忠実に全うし、殉職した人々である。その行為は英雄的であるとか表現されるものではなく、ごく普段の、ごく日常の使命に従い行動し、結果あの大崩落に巻き込まれていった。前例なき事件の予期できぬ災害。これを「犬死に」とか言いたくはないけれど、文字通り成すすべも無く何万トンにも及ぶスチールとコンクリートの下敷きになって粉みじんになってしまった。

NY市に来てから時々街のあちこちの消防局の前を通りかかると目にするのが歴代の殉職者のプレートである。たいてい一番ピカピカに輝いている、つまり一番新しいプレートの日付は2001年9月11日となっている。事件当日はNY市中の消防局に召集命令がかかった。消防士たちは現場に駆けつけ、中でもレスキューを担当するものたちがワールドトレードセンターのビルを駆け上がっていったのだ。彼らは「人を助ける」という職務を当然のこととして普段の厳しい訓練そのままに黒い煙の噴出す超高層ビルに立ち向かっていった。

今日、僕は現場の最寄となる地下鉄駅を上がり、新たなワールドトレードセンターの建設工事の進む現場脇に立った。工事用の目かくし防音幕が張り巡らされ、中では大型の建設機械がうなりをあげて作業をしている。周辺の建物に当時の様子を物語る傷跡はもう確認できない。しかし、周りを歩く観光客の表情はどれも厳しかった。アメリカ人のみならず全世界の人々が衝撃を受け、そのほとんどが卑劣な行為に対して恐れ怒りを覚えたと信じたい。

この事件以降世界は変わった。戦争といった遠く想像的な恐怖ではなく、テロという身近に潜みうる現実的な恐怖を認識し始めるに至ったのだ。恐怖を利用した心理戦によって人々を支配しようとする行為、これをテロリズムと呼ぶ。些細なことでも他人に恐怖を与えることで利を得ようとする行為、先日タイムズクスエア近辺の電器店で似たような経験をしたばかりであるが、このような行為もつまるところ同等にテロ行為である。

テロには決して屈してはならない。安易な方法で暴力的に人々を支配するような戦略が通用することなど断じてあってはならない。9月11日にあったことは全人類に対する挑戦であったと僕は考える。この首謀者たちは話し合いや交渉という予定調和な方法が通用する相手ではなく、全世界は一緒になってこのテロ行為と戦う姿勢を見せ付ける必要があった。これは人類の歴史が変わる瞬間であった。直接の被害があったなかったにかかわらず、国家として国民としてこれに対抗する姿勢を示さなくてはならないのだ。

もう60年以上も前に無理やり押し付けられた「平和」憲法は国際紛争しか想定しておらず、現在の細胞化しネットワーク化した社会的脅威や武力行使に対応できてはいない。この憲法を当分の間は遵守するにしても日本国・日本国民としてテロに対抗するという明確な姿勢は示せるのか?結局人任せにして、問題と向き合うことを先送りにはしていないか?

ワールドトレードセンターの工事現場を臨むガラス張りの連絡通路で、この光景を見つめる老婦人に出会った。事件の前に今はもう無い第7ビルディングで働いていたことがあり、毎朝この工事現場真下の地下鉄駅から仕事に通っていたという。新しいビルディングの建設の進む工事現場を見て、もう元の建物がどこにあったのかわからなくなってきたと話してくれた。

工事現場をまわり最初の地下鉄駅近くにある事件について展示する仮設の記念館を訪れる。展示は事件そのものよりも、これから建設される新ビルディング群と事件を象徴するための造形構造の紹介に比重を置いているように思えた。僕はこの事件にかかわった人、生きた人、死んだ人を見たかった。日々この場所を身近に過ごしている人々にとっては、この事件は過去のものとなり始めているのかもしれない。僕の見るべきものは他の場所にある。仮設記念館を出た。

記念館の前にはNY市でも最古の教会、独立記念前からアメリカの歴史を見つめてきたセントポール教会がある。この惨事の現場のすぐ隣に建っているのだが奇跡的に被害を免れた。その教会前を行き来する観光客に事件の写真集やパンフレットを売りつけている者が何人もいた。その事件から10年もたたぬうちに傷ついた人々の記憶を金儲けの道具にしている人々であった。いまだ傷のいえない街で、事件直後の煙の上がるビルディングの写真を自慢げにかかげ、事件についてあたかもサーカスの前説でもするかのように、何度もとなえたであろう口上を諳んじる。怒りとか悲しみを通りこし、その人々にあきらめと哀れみを覚えた。この人々は、9.11以後、人類として前進をしよう、理不尽に立ち向かおうとする進歩についてはこれない者達である。そのまま老いさらばえれば良いのだと思う。しかし前に進もうとする人々の邪魔だけはしてほしくないと思った。

僕が見なくてはならないものは、NY市消防博物館にあった。ここには消防の歴史に加えて、9.11に犠牲になった消防士達についての展示もある。それぞれの消防士達の名前と写真の下には身近な人が置いていったであろうカードが並べられていて、中には「君がいなくなってからもう8年にもなろうとしているが、まだ君が署内にいるような気がしてならない。」という文章も見られた。現場から発見された酸素ボンベは破裂しており、消防活動で使うバールはへしゃげて、ヘルメットは割れていた。胸が熱くなる。涙が出そうになる。行き場を失った感情、怒り、悲しみの入り交ざった気持ちをうまく整理できない。只々この卑劣極まりないテロリズムというものに対して自分が出来る対抗手段はないのかと思いあぐねるばかりだ。

隣の部屋では、事件直後から、救出活動、ビルの崩壊、再びの救出活動の様子を消防士達の記録カメラの映像をとおして淡々と上映していた。映像の中の消防士達に悲観にくれる者は見られなかった。ただ黙々と救出活動にとりくみ、泥だらけの手で食料を喉に押し込み、シャワーを浴びることもなく、灰とすすだらけの地べたに横になって眠る。交代の時間になればまた訓練どおりの作業にとりかかる。これらはプロフェッショナルとしての行為であり、決して取り乱さない姿勢は全世界に向けてテロリズムに対する明確な答えを示した。

この事件において、アメリカ合衆国の市民の多くが何らかの喪失を経験した。親・子・父母・友人・同僚・親戚・知り合い、それぞれの心からゴッソリともぎ取られて残った空白。僕はこの事件後のアメリカ合衆国とその同盟国によるアフガニスタンへの武力侵攻を支持する。ブッシュ大統領に対する評価は一般的に良くはないが、あの事件後、テロリスト達の望んだ恐怖支配に屈することなく、不安に苛まれる国民をまとめ、国家として対抗できただけでも十分に評価に値するものと考える。テロリズムは当事者の利害目的で行使されている。これを厳しく取りしまり、排除していくことが必要だ。僕らも、僕らの国も。
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テーマ:バレエ - ジャンル:学問・文化・芸術



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