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北米バレエ留学についていった話
京都のはずれにある小さなバレエ教室からいきなり4人の生徒がニューヨークとボストンにバレエ留学をすることになり、教室の先生の配偶者である甲斐性なし旦那が生徒達を引率してひと夏を見守ることになったのだが…
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Author:引率の者
妻(元バレリーナ)が拾ってくれなかったら、僕はとうの昔に大西洋で魚のエサになっていただろうな。いまは小さなバレエ教室の隅っこで日々たのしく暮らしています。もう大丈夫。



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さすがゾックだ
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朝10時に集合、朝ご飯は食べていない。なぜならこれから中華街に向かうことになっているからだ。

いつものABT行きの電車に乗って中華街へ、休日なので緊張感はない。ユニオンスクエアを通り過ぎてさらに先へすすむ。中華街の地下鉄駅を出ると香辛料や乾物の匂い、派手な漢字の看板がおしよせる。休日の朝から中華街はフル稼働していた。飲茶と朝がゆをもとめる客でごった返す料理店をいくつか覗いてから、客層とメニュー表をみて感だけで朝食をとる店をえらぶ。なるべく中華系の人々だけで混雑していて英語の通じなさそうな店を選択。「支払いは現金しか受け付けません」という中国語の張り紙も決め手だった。

店員のおっちゃんにメニューを必死で指差して朝がゆとエビ春巻き、干し魚の焼き飯を注文する。まず熱いお茶がでてきた。これで胃を起こすことができるのだ。

まっしろな朝がゆは優しくしっかりとした味付けで、白身魚と一緒にやさしく煮込んであった。日本の病人食と違い、一日の活力の源となるものである。熱い油のしたたる春巻きは少々重かったが、焼き飯は発酵食品である干魚の塩味が適度な飯の友となり米をぐいぐい胃に押し込んでゆく楽しみを覚える。お茶を飲めばすぐに継ぎ足してくれるのも中華街ならではのサービス。3種類の料理を目一杯食べてもお手頃価格なのもうれしい。

おいしかったとつたない北京語で謝辞を述べた後、料理店をあとにする。Kちゃんが日本のお菓子が欲しいと言うので、先日の雑貨屋をさがすが見つからない。たいして複雑な街ではないのだが、その込み合った店々の圧倒的な情報量に記憶が溺れてしまいその場所を思い出すことが難しい。偽「無印」は販売価格が高すぎるのでやめておく。

何通り目かのトライの末、目当ての雑貨屋にたどり着くことが出来た。次は迷わないように通りの名前を記憶しておこう。あきらかに日本には無い「きんくまちゃん」というお菓子に心を奪われながらもKちゃんはいくつかのお菓子を購入し、中華街をあとにする。

また地下鉄に乗ってマンハッタン島最南端のフェリー乗り場にむかう。今日は7月4日「独立記念日」、この国のお誕生日なので自由の女神でも見てやろうかと思ったからだ。自由の女神を見学するための観光フェリーは有料だが、同じような航路を描くスタテン島への通勤フェリーはなんと無料で運行されている。もちろん市民の税金によってだが。

めざとい観光客と休日でも通勤の客で船着き場は大盛況となっていた。出航時間が近づくと乗船が始まり、みんな我先にと自由の女神を臨むことの出来る右舷側におしよせた。こうも同じ側に人が乗ってしまうと船が傾くのではないかと心配になったが、そのあたりは船の設計段階で予想できていることなので排水と注水でうまくバランスをとるようだ。

この船はマンハッタン島から客を載せ出航し、そのまま舳先からスタテン島の船着き場に停泊する。そこで客を積み替えると今度が船尾側が舳先となり、マンハッタン島に向かう。機動戦士ガンダムでいうところのゾックである。前後対象の構造となっていて船の回転にかかる時間を短縮するのだ。さすがゾックだ、船足はかなり速い。観光フェリーを蹴散らし自由の女神像をかすめてスタテン島に向かう。写真を撮る時間も限られているので全員必死でシャッターをきっていた。

スタテン島に着くと冷やかしの乗客はさっさとマンハッタン島行きフェリーに乗って帰ってしまうのだが、我々はスタテン島を観光することにしていた。この島には風致地区があり独立戦争当時の農村風景が残っている。独立記念日であるならば我々観光客としてはぜひとも訪れたい場所である。

バスに揺られること40分ほどでその場所に着いた。こちらのバスは停留所をアナウンスすることが無いので。必死に地図と通り過ぎる道の名前を見比べていたが、この目当ての停留所だけは「おまたせしました」とばかりにアナウンスしてくれた。そこは道ゆく車と電信柱以外は現代と隔絶された村であった。

古い家屋や作業所に目を奪われながらも、はたしてその建造物は個人宅ではないかといぶかしみ近寄ることができないので、観光案内所をめざして小高い坂をのぼる。観光案内所は白いエンタシスのある昔の集会場にあった。ここで入村料を支払うことになっていた。入村料は少々お高いとは思ったが、これだけの景色と人の住まない建造物の保全にはそれなりの維持費がかかるだろうし、ぼったくりの京都から来た身だから支払わざるをえない。電線の埋設工事の一助となればとおもって素直に支払った。これには村内のガイドツアー料もふくまれるらしい。

ブリキ職人の家では昔の衣装を着けた腕っ節の強そうな若く可憐なおねいさんがじょうろやバケツ等の日用品製作のデモンストレーションをしていて、木工職人小屋や鍛冶屋でもそれぞれの衣装をつけた村人が作業の様子を披露していた。飲み屋に入ると当時の社交場の様子を説明してくれる村人がいて、昔は飲み屋が宿泊所も兼ねていたことを教えてくれた。農家ではちょうどパイが焼き上がったところで、それに手をのばそうとする子供を捕まえては引きもどす家族連れ観光客や、ばあちゃんの家と同じ匂いがするとさわぐ僕たちで賑やかになった。

昔の学校であった家に入るとちょうどオランダ入植者に扮したじいさんが当時の学校の様子を説明していた。授業料を払った家の子は椅子にすわって授業を受けて、払えない家の子はその周りで床にすわって授業を受けるという紙芝居屋方式で当時の教育はなされていた。個人宅を兼ねる学校では教室の裏には教師家族が生活をする部屋があり、椅子やベッド、暖炉、調理器具などが効率よく整頓されていた。当時は食事から就寝までが一つの部屋でなされていたことがよくわかり、よくぞこの狭い空間でと思ったが、今の日本の一般家庭と大差ないような気もした。

木陰でアイスクリームを食べてから、古き良きアメリカを後にして再びバス・ゾックを乗り継いでマンハッタン島に帰ってきた。熱く蒸す鋼鉄とコンクリートの現代社会だ。Kちゃんが帰りにもう一度チャイナタウンに寄って食パンとごま団子が買いたいというので適当な餅店でそれらを購入する。

夕食はデリでスープと簡単なものにして、独立記念日の花火の始まる時間前の8時にふたたび宿泊先前の集合をきめて解散する。シャワーをして雑用を片付けた後、宿泊先前に行くとKちゃんが鍵を持たずに出てきてしまったという。鍵はオートロックで部屋に誰もいなければ開けることはできない。

ルームメイトのひとは今夜は飲んで帰ってくると言っていたそうで、花火後に待っていると何時になるかもわからない。しばらく考えて宿のスタッフの方に電話をした。スタッフのおねいさんはその時花火をハドソン川岸で見るために朝からがんばっていた様だったが、それでも今からこちらに鍵を持って来てくれるという。真に恐縮の極みだ。Kちゃんと宿泊先の玄関で待つ。目の前を花火見物の人々が通り過ぎて行く。この行列をかきわけて今おねいさんは鍵を届けに来てくれるのだ。

一時間ほどでおねいさんが駆けつけてくれた。お礼と謝罪をする。仕事ですからと笑顔で仰ったが、休日なの本当に申し訳ないと思った。部屋の鍵を開けると、いつのまにか中に人が帰っていた。これなら扉をノックして大声でこちらの身分を伝えていればわざわざ鍵を持ってきてもらわなくてもよかったのではないか?穴があったら入りたいとはこのことで、そばのダストシュートに飛び込んでやろうかと思ったが、下でまたあの掃除夫に10ドルせびられそうなのでやめておいた。

再度おねいさんにお礼と謝罪をして花火を見にハドソン川にむかって歩き始める。交通整理の警察官が、歩けそこで止まるな、そこからはどうせ見えないと大声で交通整理していた。このあたりの川岸はお金をはらった人の優先席となっているようで一ブロック隔てた道ばたからビルの谷間に花火を鑑賞することになる。

シシケバブ屋台のそばで地図を地面に敷いて花火開始を待つ。おねいさんは無事に仲間のもとに戻れたであろうかと心配をする。花火を9時をだいぶん回ってから開始された。ビルの谷間から全体の端っこしか見えなかったけど夏の一部になれたような気がした。花火は意外に短く終わった。お金がないのだろう。

明日は12時に集合だ。
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テーマ:バレエ - ジャンル:学問・文化・芸術



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